米国弁護士として残ることを決めた理由(運営者・戸木)

どうもこんにちは!運営者の戸木です。

2021年5月にコーネルロースクール(LLM)を卒業し、2021年8月からサンフランシスコのマーシャル・鈴木法律総合グループで執務しています。
最初は、学生ビザ(F1)に付属する研修ビザ(F1-OPT)を使って1年間限定のインターン生として働き始めたのですが、その途中で、米国弁護士として挑戦してみたいという思いが強くなり、残ることを決めました。
今回は、なぜ私がそのような思いになったのかを、書き残しておきたいと思います。

まず、私の英語力についてお知らせしておかなければなりません。私は、帰国子女ではなく、高校や大学のときに留学をしたこともない、いわゆる純ドメです。2017年に事務所を移籍したのをきっかけに留学を考えるようになり、TOEFLの勉強を本格的に始めるようになりました。詳しくはこの記事に書いていますが、最初に受けたTOEFLの点数は49点、結局最後も90点止まりで、お世辞にも英語が大丈夫とは言えない状況でした。

2020年8月、LLMが始まった頃は、授業も聞き取れないことが多く、同期との飲み会に行ってもほとんど話のペースに付いて行けませんでした。LLMに行かれる方の多くも、同様の壁にぶち当たっていると思います。
ここで1点幸いだったのが、2020年8月が新型コロナによるロックダウン等の影響をモロに受けていたことです。世界各地で渡航規制が張られていたことなどの関係から、学校があるイサカ現地に来れたLLM生は14人(通常は100人程度)だけでした。それぞれの出身国は、イギリス、オランダ、ギリシャ、タイ、台湾、ドイツ、ベルギー、メキシコと多岐に別れ、英語をネイティブに話すヨーロッパ勢もいました。少人数だったのが功を奏し、全員とかなり仲良くなり、飲みに行ったりパーティを開いたりと、ネイティブ(並みの)英語を聞いて話す練習をする機会が多く得られたのは、非常に良かったと思います。

一般的な日本人LLM生のスケジュールに則り、2021年7月にニューヨーク州司法試験を受け、翌8月から研修を始めました。

私が所属しているマーシャル・鈴木法律総合グループは、アメリカ人のキャロル・マーシャル弁護士と、日本人の鈴木淳司弁護士が立ち上げた事務所です。現在は鈴木さんが主に舵取りをしており、日本語を母国語とする方(日本人、日系人、日本企業等)を主なクライアントとして、一般民事・企業法務のほか、訴訟(トライアル)、離婚、相続、刑事、移民と、様々な案件を取り扱っています。日本でいうところの「街弁」事務所です。
ちょうど先月(2022年12月)まで、大型の民事トライアルに対応していたので、ガチの米国訴訟実務を学ばせていただいています。詳細についてはまた別の機会に紹介できればと思います。

私自身、2012年12月に弁護士登録(第一東京弁護士会)をしてから、相続や不動産関連をはじめとした紛争を多く取り扱い、また、自己研鑽のために国選事件(成人も少年も)にも対応してきました。そのため、街弁としての働き方が身に付いており、今の事務所の案件とは親和性がありました。

とはいえ、英語(特にスピーキング)で業務ができるとは露にも思っていなかったので、1年間のインターンが終われば、当然日本に帰ることを想定していました。
ボスの鈴木さんが持っている別荘にお邪魔していたある夜、英語にも自信がないし、私も通例どおり日本に帰るつもりであるも吐露していたところ、すぐにツッコミを受けました。「英語に自信がないってどういうことだよ。じゃあいつ自信が付くんだよ。俺だって自信なんてないよ。」と。
ひとしきり飲んで布団に入った後、色んな考えが頭に浮かびました。確かに、いつか自信が付くものなんだろうか、英語がネイティブではないのに最前線で仕事をしている人はたくさんいる、パックンだって日本のネイティブじゃないのにインテリ芸能人として活躍してるし、俺は帰国子女ではないことを言い訳にしていないだろうか。

弁護士のキャリアプランとして、留学を1つの節目にする弁護士は少なくないと思います。私も、留学を機に、人とは違う特色を出してユニークな弁護士になり、顧客を獲得して行こうと考えていました。ただ、特色と言ってもなかなか容易に出せるものではなく、岡口マクロその他のソフトを作ってみたり、Lawyer’s INFOやLL.M. INFO等のウェブサイトを作ってみたり、色々と思案しているタイミングでした。
そんな中、ふと「もし自分がアメリカに残ったら、それこそユニークな存在になれるんじゃないか。日本での経験や人脈がもったいないと思っていたけど、それこそが逆に強力な武器になるんじゃないか。英語だけがネックなんだとしたら、日本に戻るよりも解決すべき課題は明確じゃないか。」という考えに至りました。

起きた翌日には、妻に、アメリカに残りたいと考えていることを伝えたことを覚えています。
アメリカに残る決断には、妻の後押しも大きく影響しました。妻はアメリカの生活に馴染んでおり、子どもの教育環境の面でもアメリカに残りたいと常々言っていました。家族に反対されていたら、やはり残る決断はできなかっただろうと思います。

もちろん、留学のためにスポンサーや推薦をしてくれたのにアメリカに残り続けることを許容してくれている高橋壮介先生(かなめ総合法律事務所。私も日本弁護士として同事務所に在籍させてもらっています。)、アメリカに残るためにビザ取得その他で尽力していただいた鈴木さんには感謝してもし切れません。この場で改めて御礼申し上げます。ありがとうございます。

決意をしたのは7月に受けたニューヨーク州司法試験の結果すら出ていないときだったと思いますが、すぐに次の2月にあるカリフォルニア州司法試験に申し込みました。
幸いいずれのバーにも合格し、日本語ネイティブの米国街弁という立場で挑戦を始めました。まだカリフォルニア州弁護士に登録してから1年も経っていませんが、案件を次々に紹介してもらえており、自分の存在がユニークであることを再確認できています。

訴訟や刑事事件が多くあるので、法廷によく出掛けています。先日は鈴木さんが対応できない急ぎの刑事事件があり、1人での法廷デビューも果たしてしまいました。英語はまだまだですが、法廷ではみんなが落ち着いてフォーマルな英語を話すので、何とかなっています。期日前後やチャンバーに行ったときの雑談は、それはそれは大変です笑

「留学経験のない人が40歳を過ぎてから英語を習得しようとすると10年はかかるらしい」という趣旨のツイートを見たことがあります。純ドメの三十路オーバーでも、10年くらい努力すれば、英語を難なく使えるようになるチャンスはあるようです。
LLMのときの比べると英語飲みニケーションの機会は格段に減ってしまいましたが、子どもを介したパパ友と話したり、事務所の1階にいる受付の兄ちゃんを練習相手にしたり、ニュースやラジオを多く聞くようにしたりして、リスニング・スピーキングの機会を極力作るようにしています。娘(8歳)の英語がネイティブ級になってきたので、発音を矯正してもらうこともあります。ライティングは鈴木さんとキャロルが指導してくれていて、本当にありがたいです。

日本人の数に比して、日本語を話せる米国弁護士は本当に少ないと思います。いわゆる「街弁」弁護士で限定すると、ほとんどいないのではないかと思います。私は非常にラッキーな状況にいることは自覚していますし、まだ始まったばかりで先は分かりませんが、弁護士としてこんな道もあるんだということを残しておきたいと思い、この記事を書きました。

この記事を読んでもし興味があれば、是非サンフランシスコに遊びにいらしてください。ナパでワインでも飲みながら、裏話をお話ししましょう!

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